インプット/アウトプットのススメ
誰もが昔、読書感想文を書いたと思います。
もちろん私も昔は読書感想文を書いていた小学生の内の一人でしたが、当時は本当に読書感想文を書くのが嫌いで、誰が私なんぞの感想文に興味があるんだとか、主人公に共感したところ?重ね合わせられるところ?ないわ!なんでこんなもん書かせられてるんだ?とよく思っていました。
まあ、正直10年前の私は今よりよっぽど真面目で臆病だったので、先生に怒られないような文章を、テンプレートに沿った文章を書かなければいけないというプレッシャーの下読書感想文を書こうとしていて、今思えばそれは書けるものも書けないよなあと思います。
あれから10年経って、私も何を間違えたのかだいぶテキトーな人間に育ち、小六の時将来の夢は学者と答えていたのに何故か美術の道に進み、やりたい放題のパッパラパーになってしまいました。
そんなパッパラパーになった今、なんで昔私たちは読書感想文を書かされていたのかなあと考えると、自ら「何か」に対して向き合い、そしてそこから出てきた感情や考え、疑問をきちんと文字に起こす練習をさせられてたんだろうな、と感じます。
要するにインプットとアウトプットの練習です。
当時の私がそれを理解していたらもっと気楽に読書感想文も書けたのでは、と思いつつ、その作業が大切だと実感するようになったのは高校辺りからなので、こういう理由で読書感想文は書かされているんですよ、と伝えたところで「いや分からんわ」になる気もしますが。
何かを見る・聞く・触ることで自分の中に発生した感情・考えに対して向き合うことは大切です。
向き合うことで己の中身を充実させることができるからです。
例えばあるものを見て、大意としては悲しいだけど悲しいの一言で表すには少し違う、得も言われぬ感情を得たとします。
この感情は何なのか、もやもやさせたまま放っておくこともできます。
でも、しっかりこのもやもやに向き合って、辞書などで言葉をたくさん調べていくことで、今自分の中にある感情にぴったり当てはまる言葉を見つけられるかもしれません。
この感情は「悲しい」の中でも「寂寥感」なのか、のように。
この過程を踏むことで、私たちは実感として「言葉」を得ることができる。
別の例を挙げます。
何かを見て、とても面白いと感じたとします。
その面白いという感想を、ただ面白かったなあと通り過ぎることもできます。
でも、そこから「これは何故面白いと感じるのか?」と掘り下げることもできます。
こういうロジックがあるからでは、こういう表現を用いているからでは、あれこれ考えること。いわゆる「考察」の過程です。
考察をし、それを言葉にしていくこと。
意外と難しい作業です。
何故なら散らばっている自分の考えを拾い集め、それらを脳内言語から共通言語(日本語や英語のようなLanguageのこと)に変換し、かつまとまった文章へ仕上げていかなければいけないからです。
普段から鍛えられている人、慣れている人はこの変換・まとめ作業を難なくこなすのかもしれませんが、私はあまり得意ではないため結構なリソースを割いてしまいます。
Twitterのように短文に起こす分にはまだ簡単ですが、こういうブログのようなものになると本当に難しい。
言ってみればレポート、論文だってその類であり、それらを書いた経験のある人はなんとなくその感覚は分かるのではないでしょうか。
また、考察をしてそれを言葉に起こしていくことは、自分の思考力を上げるだけでなく、他人への説得力を増すことにも繋がると思います。
なぜなら、ただ「面白い」と言われるよりも「こういう理由で面白い」と言われた方が、他人は理解しやすいからです。
これはポジティブなものだけでなく、ネガティブなものもやっていった方がいいと私は思います。
そこから解決策が生まれるかもしれないし、他人からも逆に興味を持ってもらえるかもしれないからです。
Twitter等でも、ただつまんないとだけ言われている映画よりもボロクソにここが酷い、あれも酷いと理由を列挙して叩かれてる映画の方が「逆に見てみたいな……」となりませんか?私はなります。
さて。
私は今若手俳優のおたくをしているわけですが、舞台を観ること、そしてその感想を文字に起こすこと、それが私の主なインプット/アウトプット作業のワーキングスペースになると思います。
毎度毎度こうしてブログのような媒体に感想を書くべきだなあとは思うもののそこまで至ることはできていませんが*1、その代わり推しへの手紙がアウトプットの場になっています。
手紙を書くためには作品をただ観るだけでなく、考えながら観なければいけない。そりゃあここがカッコよかった!好きだった!だけの手紙だったらそこまで考えずとも書けるかもしれないけれど、せっかく大金を叩いて観に行ってるのだから、全編は無理だとしてもワンポイントでもいいから真剣に向き合っていった方がいいんじゃないかと、そう思います。*2
そもそも向こうも表現者なのだから、舞台上で何かを表現しているわけで、その表現をこちらも汲み取るために向き合って考えることが敬意にあたるのではないでしょうか。
私は一時期デッサンの講習を受けていたことがあるのですが、質感を表すためのタッチがこういう理由でいいね、と言われた時はそう!そうなの!と嬉しかったのを覚えています。
あくまで勝手な想像で当てはまらない人もいるのかもしれませんが、自らの表現を具体的に褒められて嬉しくない表現者はいないと思います。それが意図しないところであったとしても、そういう視点があったのかと糧になりますし。
逆に、「虚無」と言われる作品に何故虚無なのかをつらつらと並べたてるのも大切かと思います。次なる虚無を生み出す予防になるからです。
批判をしないことで駄作と呼ばれる作品が蔓延していくくらいなら、きちんと向き合ってここがダメだあれがダメだと言葉にしていった方がいいです。無駄にお金を払ってしまったと後悔することが減るかもしれません。
そこの辺りの労力をきちんとかけていくことでつまらない作品に当たらず、楽しい・面白い作品に出逢える確率が上がっていくと信じているからこそ、何がダメなのかを言葉にしていくのです。
収益を望まない舞台は話が別ですが、大抵の舞台は収益を望んでいるはずで、収益を得るためには「面白い」「また観たい」「人にも勧めたい」舞台を作り手は意識するはずです。何故つまらないと思うのか、ダメだと思うのか、その批判に晒されないと作り手側もいつまでも面白い作品を作ることができず、収益にありつけません。
理不尽な批判は私もよくないとは思いますが、真っ当な理由ありきの批判はあって然るべきです。
と、昨日の夜から考えてたことをだらだらと書き留めました。一回まとめて吐き出さないと頭の中に留めておくには情報量が多すぎたので……。久し振りにこういう文章を書いたのでだいぶ疲れましたね。
まとめるとインプット/アウトプット作業は自分のためにも他人のためにもなるから実践していった方がいいよ、ということです。好きなことも嫌いなことも、理由付きのまとまった言葉にすればよっぽど頭の固い人間でなければ理解はしてくれると思うので。その上の納得にまで至るかどうかは別問題ですが……人それぞれで思想の違いはありますしね。
以上インプット/アウトプット作業の勧めでした。
無事書き終えたので私は今やってる舞台にちゃんと向き合います…………。